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創造力と加齢:高齢の芸術家達の精力的な生き方に学ぶ

与謝蕪村の円熟期の作品と「晩年の様式」の概念

 

この章では、与謝蕪村の円熟期の作品と「晩年の様式」の概念について述べる。まず蕪村の少年期、青年期、中年期について簡単に触れ、次に晩年の10年間を、その間に彼が極めた3種の芸術、すなわち俳句[1]、画、書を通して見ていくことにしよう。何より注目すべきは、高齢になっても、蕪村が最期まで意欲的に創作活動にたずさわっていたことである。「晩年の様式」に関してここに挙げた彼の俳画も、そのことを如実に裏付けている。老いてなお、蕪村がさらなる自己成長や新たな技の習得に期待を寄せていたことがうかがえる。晩年の創造力の深さには、計り知れないものがある。

 

蕪村の中年期までの略伝

幼少年期

 蕪村は1716年(享保元年)摂津国毛馬村(現・大阪市都島区毛馬町)に生まれた。姓は谷とも谷口ともいわれている。幼少期についてはほとんど知られていない。両親は1723年、蕪村が8歳のときに離婚したらしい。1728年、蕪村が元服の儀を迎える13歳に達したころ、母親が死去。同じころ、父親も死去したと思われる。姓があるということは、村ではある程度、地位のある一族だったのだろう。蕪村が父祖の家産を破尽したという記録もある。彼自身は自らの幼少期については何も語っていない。

 

関東時代

1732年、17歳のときに、蕪村は江戸に出たようだ。20歳のときという説もある。目的は不明である。1737年に早野巴人宋阿(はじんそうあ)16761742)が京都から江戸に戻って来ると、彼に師事して俳諧を学び始めた。内弟子として巴人の夜半亭に身を寄せ、芭蕉の初期の門下生である榎本()(かく)16611707)や服部嵐雪(16541707)から学んだ巴人について、芭蕉の流れをくむ俳諧を学んだ。この頃は(さい)(ちょう)(後に宰鳥)という俳号を称していた。俳諧とともに、蕪村は主として独学で画も学んだ。和漢のさまざまな作品や、南宋画の画譜から学んだものと思われる。また儒学者で、詩人、画家でもある服部南郭(16831759)とも親交があったようだ。俳号とは別に、蕪村は朝滄(ちょうそう)という画号を用いた。俳諧の師、巴人宋阿が1742年に没すると、その後10年余り、蕪村は遊歴を続ける。まず砂岡雁宕(いさおかがんとう)に招かれて下総結城(現・茨城県)を訪ねる[2]。その後1年余り、芭蕉の『奥の細道』の跡をたどって奥羽の旅に出る。宇都宮、福島を経て山越えをし日本海側の酒田の湊へ、そこからさらに象潟、秋田、能代を経て外ヶ浜まで行く。そこで南に向きを変え、太平洋側の海岸沿いに進み盛岡、平泉、松島、仙台、白石に立ち寄り、福島、結城に戻る旅だ。途中で巴人の諸弟子を訪ねたり、仏寺に泊まったりしながら、俳諧師としての修行をかさねた。1774年、宇都宮で編集した「歳旦帖」で初めて蕪村と号した。つまり、私達に最もなじみの深い蕪村という俳号が初めて用いられたのは、29歳の時だったことになる。この俳号は陶淵明の「帰去来辞」[3] の一節、「帰去来今、田園将蕪」[4] から採ったのかもしれない。あるいは、後にしてきたふるさとの村への想いからつけた俳号だったのだろうか。

 

同じ頃、俳壇の長老、早見(しん)()(16711742)の死を悼んで詠んだ「北寿老仙をいたむ」は、1745年に出た『いそのはな』に収録されている。これには釈蕪村という仏教の号が用いられている[5]

 

旅から旅への暮しでは、画は和漢の作品を参考に独学で修行したものと思われる。この時期の作品は数えるほどしかない。浄土宗弘経寺の襖絵「墨梅図」(『蕪村全集第六巻』絵画#10)や「文徴明八勝図模写」(署名なし。中村美術サロン蔵)(『蕪村全集第六巻』絵画#9)くらいである。南宗画風の絵には、「山水人物図」(『蕪村全集第六巻』絵画#14)に見られるように「四明」と署名することが多かった。

 

京都へ

東北奥羽地方を10年に渡り遊歴した後、1751年、37歳になった蕪村は京都に出た。まず俳人の毛越と宋屋(そうおく)を訪ねたが、このうち宋屋との親交はその後も長く続いた。巴人の門弟の世話になったり、浄土宗総本山知恩院の脇寺などに身を寄せたりして、3年余り京都にいた。当時は俳諧師としてはまだ無名で、画業の方もこの時期の作品はほとんど見られない。京都では、寺社に残る和漢の屏風絵や掛け軸等を間近で見る機会に恵まれた。こうして大家の作品に親しみ、しだいに自己の画風を築いていったといえよう。

 

丹後

1754年、蕪村は丹後に行き与謝郡宮津の浄土宗見性(けんしょう)寺に寄寓した。宮津に来たのは、母親の出身地だからという説と、南画の絵師で俳諧や俳画にも秀でた(さか)()百川(ひゃくせん)16971752)が1752年に京都に戻り息を引き取る前にこの地に寄寓していたためだとする説がある。宮津の見性寺の住職、竹渓(ちくけい)は蕪村の数少ない俳諧仲間だった。()(じゅう)もそうした俳友のひとりで、蕪村は彼に俳画風の墨絵「天橋」(『蕪村全集第六巻』俳画#2)を送っている。これには百川に宛てた長い献辞がある。

 

「八僊観百川丹青をこのむて明風を慕ふ。嚢道人蕪村画図をもてあそんて漢流に擬す。はた俳諧に遊むてともに蕉翁より糸ひきて、彼は蓮二に出て蓮二によらす我は晋子にくみして晋子にはらはす。されや竿頭に一歩をすすめて落る処はままの川なるへし。又俳諧に名あらむことをもとめさるも同しおもむきなり鳧。されは百川いにしころこの地にあそへる帰京の吟に

はしたてを先にふらせて行秋そ

わかゐまの留別の句に

せきれいの尾やはし立をあと荷物。。。」[6]

 

丹後で3年ほど過ごし、その間、狩野派や彭城百川、大和絵系の諸作品や、明末清初の文人、李漁(李笠翁)の『芥子(かいし)園畫傳(えんがでん)』等の中国の画技書を手本に、画技を磨くことに専心したようだ。この時期の作品で現存するものとしては、施薬寺の「方士求不死薬図六曲屏風」(『蕪村全集第六巻』絵画#18)「祗園祭礼図」(『蕪村全集第六巻』絵画#21)等がある。

 

京都に落ち着く

1757年、42歳になった蕪村は京都に居を構え、以後この地で生涯を過ごした。1758年には谷口の姓を改めて、与謝と名乗るようになった。それまでの3年間を過ごした、母の出身地の丹後与謝に因んだものだろう。絵師としての門出に当たり、新たな姓がふさわしいと思ったのかもしれない。この頃は長康、春星、三菓軒などいくつかの号を用いている。「牧馬図」(1759年)(『蕪村全集第六巻』絵画#50#51)は、沈南蘋(しんなんぴん)(16821760)の色鮮やかな花鳥獣の写生図の影響を思わせる。ほかにも中国の掛け軸や画技書を研究したようだ。絵師として名が広まりだしたものの、資金繰りには依然、悩まされていた。この頃、友人や弟子達がお金を出し合って講を組織し、貧しい蕪村に画材を買い与えて屏風絵や小作品を描かせた。このような講の支援で、1763年から1766年にかけて絖(繻子)や絹、紙の屏風絵を24双も仕上げている。(『蕪村全集第六巻』絵画#92#149参照)

 

讃岐行脚

1766年から1768年にかけて、50代初期の蕪村は何度か京都と讃岐(現・香川県)を往復して、讃岐や四国の他の土地に長期滞在した。おそらく、さまざまな絵の注文仕事のためだったと思われる。一方で、俳諧仲間を訪ねることも多かった。妙法寺の大襖絵「蘇鉄図」(『蕪村全集第六巻』絵画#202)に、この時期の蕪村の画の傾向がうかがわれる。他には明の文人画家劉俊の掛け軸を模した「寒山拾得図」(『蕪村全集第六巻』絵画#193)や、沈周の墨絵の写生図を模した「欲雨寒森図」(『蕪村全集第六巻』絵画#194)などの作品がある。この時期の蕪村の中国風の絵画を代表するものだ。讃岐では、俳画は描かなかったようだ。晩年の作品と比較してみると、讃岐時代の蕪村の絵は筆に勢いがありまぎれもない才能がうかがえるものの、絵師としてはまだ修行の途上だったことが分かる。

 

京都で名を成す

京都に戻った蕪村は、1766年に、炭太祇(たんたいぎ)170971)や黒柳召波(しょうは)(1771)(でん)(ぷく)17201793)と共に三菓社という句会を結成した。この頃には、結婚して一女をもうけていたようだ。妻「とも」と娘「くの」についてはほとんど分かっていない。蕪村の晩年の書簡にわずかに二人について触れた箇所があるだけである。1770年、50歳の時、蕪村は巴人の跡を継ぎ、夜半亭二世の宗匠として立った。太祇と召波の没後は、蕪村が蕉風復興運動の京都での中心的存在となった。これは、芭蕉の俳諧の精神を正しく理解し伝えることを目的に、全国に広がった運動である。この頃は、俳諧を芸術活動の中心に据えていたものと思われる。『其雪影』(1772)、『このほとり』、『明鳥』(1773)等の句集が編まれたのもこの頃である。

 

また、京都の画壇の第一人者として認められるようになり、1768年には『平安人物志』の画家の部に大西酔月、円山応挙、伊藤若仲、池大雅と並び蕪村の名が掲出された。住所は、四条烏丸東ヘ入る町と記されている。1770年、室町通綾小路下る町に居を移す。1775年の『平安人物志』にも、画家の部に円山応挙、伊藤若仲、池大雅と並んで、蕪村の名が引き続き掲出されている。1782年版にも蕪村の名がある。こうした他の画家達との交流については不明である。たとえば、1771年の池大雅との合作「十便十宣図」(『蕪村全集第六巻』絵画#231)では、大雅の「十便図」に合わせて蕪村は「十宣図」(謝春星と署名)を描いた。中国の文人李漁が、伊山にある伊園という地での田舎暮らしの十の便と十の宣しきことを詠んだ漢詩20編に、2人の画家がそれぞれ絵をつけたものである。尾張国鳴海(現・愛知県)の素封家、下郷学(しもざとがっ)(かい)の依頼で生まれた作品だった。蕪村と大雅はまた、当時臨済宗の相国寺派の寺になっていた銀閣寺(慈照寺)の方丈に、それぞれ襖絵を収めた。蕪村のこの襖絵3点(『蕪村全集第六巻』絵画#255256257)は、今も方丈に残る。池大雅とこれ以上の交流があったかどうかは、はっきりしない。円山応挙との関係については、もう少し詳しいことが分かっている。ふたりとも同じ京都の四条に住み、しかも近所同士であった。会う機会も多かったはずだ。ふたりとも「蓬莱仙奕」[7] という中国画を模写している。1774年には画風の違いを超えて、呉春をも加え、合作を実現している。さらに、蕪村の没後、高弟の松村月渓(げっけい)17521811、後に呉春と名乗る)が、蕪村の弟子として、また優れた絵師として円山四条派に迎えられたことからも、応挙と蕪村の交友の深さが偲ばれる。呉春は後に四条派の祖となった。この時期の蕪村の作品は、風景、人物、草花、鳥、動物、俳画と幅が広く、大作あり小品ありで、画家としての円熟ぶりをうかがわせる。画法の豊かさも、この円熟期の特徴のひとつである。

 

蕪村の晩年:円熟期

蕪村の芸術は、晩年に頂点に達した。1777年は、文学活動に最も脂がのっていた年である。なかでも『春風馬堤曲』は、毛馬への郷愁の思いを詠んだもので、俳句漢詩それに和詩を交えた十八首から成る。『新花摘』は初めは句集だったのが、しだいに遊歴時代を偲ぶ句日記のようになったもの。『春泥句集』は、召波の句集に蕪村が俳句論として有名な序を寄せたものである[8] 。

「余(かつ)テ春泥召波に洛西の別業(べつげふ)に会す。波すなはち余に俳諧を(とふ)。答(いはく)、俳諧は俗語を(もちゐ)て俗を離るるを(たつと)ぶ。俗を離れて俗を用ゆ、離俗の法(もっとも)かたし[9]。かの何がしの禅師が、隻手(せきしゅ)の声を聞ケといふもの、(すなはち)俳諧禅にして離俗ノ則也。」[10]

 

さらに、李漁が芥子園画伝で画家達に勧めているように、この精神を得るには書を、特に漢詩を読むようにと、召波に勧めている。

 

「答(いはく)、画家ニ去俗論あり。(いはく)、画去ルコト俗無他ノ法。多読書則書巻之気上升、市俗

之気下降矣。学者其慎旃(それこれをつつしめ)(よや)。それ画の俗を(さる)だも筆を投じて書を(よま)しむ。(いはんや)詩と俳諧と何の遠しとする事あらんや。」[11]

 

句作には漢詩の研究が欠かせないと説く蕪村は、俳諧だけでなく絵画も広い視野でとらえていたのだろう。寒山、陶淵明、李白といった中国の文人達の肖像図まで描いている。若い頃、師巴人から、思いのままに詠むより手本に学んで精進すべきだと厳しく戒められた。1774年刊の『むかしを今』の序で、蕪村は巴人の教えについて触れている。

 

「ある夜危坐(きざ)して予にしめして(いはく)(それ)俳諧のみちや、かならず師の句法に(なず)むべからず。時に変じ時に化し、忽焉(こつえん)として前後相かへりみざるがごとく(ある)べしとぞ。予、(この)棒下(ぼうか)頓悟(とんご)して、やや俳諧の自在を知れり。されば今(わが)門にしめすところは、阿叟(あそう)磊落(らいらく)なる語勢にならはず、もはら蕉翁のさび・しほりをしたひ、いにしへにかへさんことをおもふ。是外(これそと)(きょ)(そむき)内実(うちじつ)に応ずる也。これを俳諧禅と云ひ、伝心の法といふ。」[12] 

 

上記のように、蕪村は京都での蕉風復興運動の中心的な存在だった。蕪村の尽力で、1776年には比叡山麓の一乗寺村の(こん)(ぷく)寺境内に芭蕉庵が再建された。その経緯をまとめた『洛東芭蕉庵再興記』は、金福寺に奉納されている[13]。この草庵で、蕪村は俳諧仲間と集まり俳諧や連歌を詠んだ。1777年には、檀林会を結成した。しかし、句作に打ち込んでも、ほとんど稼ぎにはならなかったようだ。家族を養うために、蕪村は売り絵を描いた。一方で、食物や酒や女性に金をつぎ込むので、暮らし向きは楽ではなかった。仲間と集まって打ち興じるのが、何より好きだったのである。そのうえ、小糸という祗園の芸妓に恋をしていた。この時期を代表する作品は「夕立山水図」(『蕪村全集第六巻』絵画#420)で、蕪村が65歳の時に馬遠の技法に習って仕上げた襖絵である。この襖絵は、「白梅紅梅図」屏風(『蕪村全集第六巻』絵画#421)などの作品と共に、今も角屋(すみや)に残り、蕪村が俗を離れた世捨て人などではなかったという説を裏付けている。角屋は島原の揚屋だが、蕪村の時代には画家や文人が集い、酒を酌み交わしながら音楽や芸術を楽しむ場でもあった。時の当主、徳右衛門は徳野(とくや)という俳号を持ち、蕪村とは俳句を通じて親しい仲であった。

 

絵画

晩年の10年間の作品には、少なくとも3通りの署名が見られる。1772年~1782年の作品には「蕪村」、1782年~1783/4年には「夜半翁」と署名したものがある。だが、この時期の署名で最も目立つのは「(しゃ)(いん)」という画号で、17781783/4年に仕上げた196作品のうち172点に謝寅の署名がある。このため、この多作な時期を謝寅時代と呼ぶこともある[14]。蕪村のいわゆる「南画」の代表的な作品も、この時期に描かれている。南画とは、中国の文人達による南宗画の精神を受け継いで生まれた絵画である。謝寅の署名や落款のある作品は小さな掛け軸から大屏風絵まであり、絵の題材も人物や鳥、風景など中国の文人画の影響が色濃く感じられる。作品は実に多様である。若い頃から常に漢詩に親しみ、中国のさまざまな絵画を研究してきた蕪村らしく、中国の文人達が好みそうなものを描いた。絵に描き込んだ銘の中には、文徴明、馬遠、米_、趙孟、王蒙、劉俊、沈石田、唐寅、董其昌などの宋、元、明、清の画家の名前が見える。

 

たとえば、1781年作の人物画に、陶淵明の「桃花源記」を扱った掛け軸「武陵桃源図」(『蕪村全集第六巻』絵画#435)がある。陶淵明は、蕪村が最も敬愛していた詩人である。この絵の中の人物像は明朝の浙派の絵を基にしているが、蕪村の詩心とのびやかな筆さばきでさらに味わいが増している。ここでは老人はいかにも満ち足りてはつらつとした雰囲気で描かれている。

 

「春光晴雨図」(『蕪村全集第六巻』絵画#395)や「竹渓訪隠図」(『蕪村全集第六巻』絵画#491)などこの時期を代表する小品では、独特の光と情景の中で木々の葉がきらめく一瞬をうまく捉えている。蕪村の俳諧の精神が南宗画の詩趣にみごとに溶け込んでいる。屏風絵「竹林茅屋・柳蔭帰路図」(『蕪村全集第六巻』絵画#489)など大型の作品でも同じことが言える。

 

謝寅の署名がある「鳶・鴉図」という掛け軸(『蕪村全集第六巻』絵画#573)にも、南画の趣が感じられる。大胆な構図、動きのあるのびやかな筆づかい、墨のあしらい等、蕪村の俳諧の精神をそのまま映しているようだ。この題材が蕪村の気質に合っていたのだろう。同じ題材の作品が8点も残っている(『蕪村全集第六巻』絵画#566575)。

 

「夜色楼台図」(『蕪村全集第六巻』絵画#538)は、詩趣にあふれ俳画に近い絵で、蕪村の作品でも最も人気が高いものである。どんよりした雪空、重なり合うように続く家々の屋根、しんしんと降り積む雪、飾らない、しかも悠久な景色に彩りを添える朱色の灯火。俳諧と同じように、絵画においても蕪村は幽玄を求めた。この作品には、そんな蕪村の理想がうまく表されている。作品様式が似ているものとしては、「峨嵋露頂図」(『蕪村全集第六巻』絵画#537)という掛け軸がある。

 

謝寅時代の変化に富んだおびただしい数の作品群を見ると、蕪村の制作の現場をもっと詳しくのぞきたい気持ちにさせられる。どの絵画から見ていけばよいかは、『蕪村全集第六巻』の収録作品が参考になるかもしれない。ただ、この時期の蕪村の絵画は人気が高かっただけに、謝寅と署名した贋作も多く出回ったことに注意したい。

 

蕪村の南画の多くに謝寅の署名があるように、晩年の俳画には「蕪村」や「夜半翁」と署名したものが多い(『蕪村全集第六巻』に収録された俳画全124点のうち113点にこの署名がある)。俳画もまた、蕪村の成した芸術上の大きな功績といってよいだろう。代表的な一例として「若竹図」(『蕪村全集第六巻』俳画#38)と題した掛け軸があり、これには蕪村の句が記されている。墨でさっと描いた上に淡く色をつけたもので、墨色を少し濃くした二群の竹を透かして二,三軒の小屋の輪郭がうっすらと描かれている。上方に蕪村の句がある。

 

若竹やはしもとの遊女ありやなしや[15] (#626[16]

 

こうした俳画において、蕪村は、俳諧と散文、絵画、書の3種の芸術を組み合わせた新しい様式を生み出したのである。蕪村が長年かけて磨いた芸術をさらに見ていき、その後で再び俳画に戻り「晩年の様式」という点から改めて見直してみたいと思う。

 

蕪村の第3の芸術は書で、この方面でも独自の境地を開いた。俳諧や絵画の場合と同じく、書も絶頂期に達したのは晩年であった[17]。墨跡を見ると筆圧が一様で、筆鋒の腰の部分はほとんど用いていないことが分かる。絵画と同様、書も独学で技を磨いたようだ。伝統的な「永字八法」の運筆法には余りこだわらなかったようで、トメやハネにことさら気づかっている様子は見受けられない。自由闊達な筆致から見て、手首の力を抜き肘を柔軟に流れるように動かして書いたと思われる。蕪村の俳画の伸びやかな線にしっくりなじむ筆遣いである。たとえば、「又平に」(『蕪村全集第六巻』俳画#50)という自画賛を見てほしい。酔っぱらって踊る男を描き、それに賛と「蕪村」の款、「長庚」「春星」の印を添えたものである。賛にはこうある。

 

「みやこの花のちりかかるは

光信か胡粉の剥落したるさまなれ

又平に逢ふや御室の花さかり」[18]#1955

 

芸術の三分野での達人

このように蕪村は俳諧、絵画、書という芸術の三つのジャンルでそれぞれ達人になった。今日では、蕪村は芭蕉、一茶と並び、日本の三大俳人のひとりに挙げられている。中国の文人画というジャンル、画風、思想を池大雅と共に「南画」という日本画として確立した二大画家のひとりでもあり、また「俳諧の書」の創始者としても知られている。

 

江戸時代の「文人」画家の中には、蕪村のほかにも他の芸に秀でている人たちが見受けられる。池大雅は画と書、青木木米は画と陶芸、浦上玉堂は画と音楽で名を成した。しかし芸術の2分野で終わらず3分野を極め、それを俳画という新しい様式にみごとに結集させた者は、蕪村ただひとりである。江戸時代の文人画家達の中で、中国の文人の理想とされた「詩書画三絶」に最も近づいた人物が蕪村だと言ってよいだろう。

 

興味深いことに蕪村の一番弟子の呉春も、師の跡を継いで俳諧、絵画、音楽(特に横笛)の三分野を極めている。

 

最期まで創作欲衰えず

多くの芸術家がそうであるように、蕪村も生涯現役で最期の日まで俳人、画人として創作活動を続けた。天明(17811784)年間の作品からは、蕪村の生命力のようなものが伝わってくる。『蕪村全集第6巻』にはこの時期の絵画136点(全絵画の24%)、俳画25点(全俳画の20%)が収められている。俳諧においても、蕪村は精力的に活動を続けた。前述の通り金福寺での芭蕉庵再建に尽力した蕪村は、芭蕉(17833月)だけでなく俳人仲間だった太祇や召波の追善俳諧にも出座した。9月には宇治に茸狩りに赴き、その様を絵にして賛をつけている[19]。その後、体調を崩し天明3年(17831225日に他界した(西洋暦では1784117日)[20]。家族と一番弟子の梅亭と呉春が最期を見取った。呉春は蕪村が絞るような声で詠んだという辞世の句を記録している。

「しら梅に明る夜ばかりとなりにけり」(#1728[21]

生前、「我も死して碑に辺せむ枯尾花」(#1099)と句に詠んだ通りに、蕪村は金福寺の芭蕉の句碑の近くに葬られた[22]

 

 

蕪村の俳画と「晩年の様式」

「俳画」は、蕪村の芸術上の功績で最も大きなものといえるかもしれない。俳諧、絵画、書をそれぞれ極致まで高めてひとつにまとめた新しい様式が俳画である。ただし蕪村自身は俳画という言葉は一度も用いず、「俳諧ものの草画」と呼んでいた[23] 。「俳画」(「俳諧絵」)という語は、渡辺崋山が『俳画譜』で用いたのが最初のようだ[24]。『蕪村全集第6巻』の「俳画」の項には3種類の絵が収録されている。1.筆で即興的にさっと描き、ときには淡彩をほどこし俳諧風の賛を添えたもの(『蕪村全集第6巻』俳画#1772)。2.もう少し丁寧な筆致で描いた芭蕉像(芭蕉以外の師達の肖像も含む)で、墨と淡彩の絵に長めの賛を添えたもの(『蕪村全集第6巻』俳画#86878889909192101102103104)。3.芭蕉の俳文に墨と淡彩でさらに細やかな筆致で描いた挿絵をつけ、屏風や画巻に仕立てたもの。六曲屏風1集「野ざらし紀行」(『蕪村全集第六巻』俳画#77)、3巻(『蕪村全集第6巻』俳画#788085)、六曲屏風1集「奥の細道」(『蕪村全集第6巻』俳画#84)。

 

蕪村は明らかに俳画に自信を持っていたようで、1776年8月11日、門人の几董(きとう)に与えた手紙の中で、「俳諧ものの草画」にかけては自分に並ぶ者はないと書いている[25] 。もちろん、「俳諧ものの草画」の創始者は蕪村ではない。立圃(りゅうほ)(1595-1669)、西鶴(1624-93)、芭蕉(1644-94)のような先人達も俳画を残しているし、俳諧師で南画の絵師でもあった彭城百川も俳画の先達として蕪村に大きな影響を与えたようだ。しかし、機知、ユーモア、ひらめきに富み、鋭さと軽妙さを備えた俳諧師、絵師の蕪村こそが俳画という絵画様式を完成させたといえる。蕪村にとり、俳画は独立したジャンルだった。俳句と同様、日常のありふれたものを描きながらも俗を離れ、瞬間を捉えながらも時がずっと続いていく様子を表した。

 

「晩年の様式」の論題に戻って、蕪村の大成期の絵画作品を見てみると晩年期に描かれたという印象がまるでない。蕪村は生涯にわたり絶えずいろいろな様式で作品を表し、また絶えず技を磨き画家としての腕を上げていった。南画風作品にもそれがよく表れている。とはいえ、晩年期の作品の中には俳画の精神や技を思わせるある特質が感じられるものもある。さらに、前述のように蕪村の俳画、あるいは「俳諧ものの草画」はほとんどが(『蕪村全集第6巻』「俳画」の項に掲載された124作品中113点)晩年の10年間に描かれていて、俳人、画家、書家としての老成ぶりが反映されている。ここで問題になるのは、蕪村の俳画は、ルドルフ・アルンハイムの言う「晩年の様式」につながる作品と様式やその他の特質を共有しているかどうかである[26]

 

「晩年の様式」というと「老年期の様式」[27] も指すことになるが、これは多くの優れた芸術家達が創作活動を続けて最後に到達する大成期のことを表す用語である。この比較的新しい概念についてはすんなりと受け入れがたいところもあるが、美術史家や、心理学者、また加齢や長寿に関する研究者達の論文にこれについての論議が見られる。たとえばアルンハイムは創作活動の最後に到達するこの大成期を「超然とした瞑想」により区別された期間と特徴づけ、物質的な特徴はもはや重要ではないという。「内奥に存する本質を探り当てるために外観を超越」した世界観により特徴づけられる。気質が、発達の段階から「強情な活力」の状態へと移行する。何かひとつだけ強調することをやめ、「質感の均一」を与える傾向を表すのに、アルンハイムは「均質化」という語を用いている。「類似点の方が差異に勝」り、またこうした作品は構成や要素の配置が大まかであることが多く、絵画や素描においては輪郭や色彩に大まかなところが見られる。カステンバウムは言う。「晩年の様式の特徴は抑えた手法、表現の簡潔さ、不必要な画線や句や音を取り去り本質のみを伝達することである」[28]。改めて蕪村の俳画をみてみると、この言葉が確かにしっくり当てはまる。

 

「晩年の様式」という語はこれまでミケランジェロやゴヤ、レンブラント、モネ、ドガといった西洋の諸芸術家達の晩年の作品を語るのに用いられてきた。演奏家や作曲家、作家の作品にも用いられる。一般的に、鑑定家達は晩年の様式の作品をこうした芸術家達の最も優れた作品としてみているようだ。高齢期の創作力について考えると自然に他のあらゆる職業の人の創造的な作品が浮かんでくる[29]。中国でも批評家達は、中国の画家達の晩年の作品に惜しみなく賞賛を送る傾向がある[30]

 

一方、牧渓の情緒的な雰囲気のある「瀟湘八景図」の風景画や梁楷の「李白」の簡素化した肖像画など禅画のあるものは、必ずしも晩年の作品ではないが、「晩年の様式」という語で表される諸作品と同じ特徴を備えている。禅画と俳画を関連づける人もいるが、蕪村の俳画は禅画ではない。彼の作品にはそれほど仏教的な要素はうかがえないが、明らかに禅の教義には通じていたようだ。禅画と俳画に似たところがあるのは、ひとつには同じ画材と技法を用いているからだろう。またどちらにも余分なものを取り除き本質のみを見つめるという円熟した世界観があるのも、似て見える一因かもしれない。蕪村の俳画は、円熟した多才な芸術家の「晩年の様式」を代表するものであり、これ自体まさに「晩年の様式」の概念を如実に裏付けている。

 

晩年の様式」の意味するところ

「晩年の様式」の概念が確実に裏付けられるとしたら、その意味するものは深い。芸術家の技量や創造力は、中年以降、必ずしも下降線をたどるわけではない。むしろ、さまざまな問題に取り組み解決策を模索する日々の中で、中高年になっても自己成長を続け、芸術上のさらなる向上が望めるかもしれない。残り時間が少なくなって来るにつれ、高齢の芸術家はそうした問題や解決の方法にますます焦点を当てるようになる。たしかに、最晩年に生涯で最高の仕事をなす芸術家がいるものだ。加齢には総じて敬意を表するが、このことから高齢になっても創作能力や意欲は衰えるとは言い切れないことが分かる。苦心して新しいものを生み出したり、新しい見方をしたり、平凡なものに光を当てたりと、高齢になっても精神は活発に働き続ける。高齢者達は活き活きとさらに齢を重ねていくのを楽しみにすることができる。

 

注)当研究の大部分は文部科学省及び日本学術振興会から交付された科学研究費補助金で行ったものである(#11680240)。精力的な加齢の論議、及び付録の芸術と創造的な加齢の参考文献一覧は今回新たに付け加えた。

 

 

 



[1] For a discussion of the terms haikai  俳諧、 haiku 俳句、 haibun 俳文、 haigô 俳号,  haiga 俳画,  see Zolbrod, Haiku Painting,  pp. 43-44.

I have decided to use the newer and more familiar term haiku, instead of the older term haikai  thoughout this paper. In other words, the term haiku is here used both in the narrow sense of the 17 syllable haiku poem and in the broader sense of haikai poetry and prose. The term haikai  is maintained in a few of the English translations. 

[2] For a map, see Ueda, The Path of Flowering Thorn: The Life and Poetry of Yosa Buson,  p. 12.

[3]歸去來辞] 「田園將蕪胡歸」;Matsueda Shigeo, ed., Selections of famous Chinese poems,” Vol. 2, Wide Iwanami Bunkô, Tokyo: Iwanami Shoten, 1994. 松枝茂夫編『中国名詩選』中 ワイド岩波文庫27、東京:岩波書店、1994年;p。97。

[4] The translation is from Robert Payne, The White Pony: An Anthology of Chinese Poetry,  New York: Mentor Books, 1960.

[5] Buson zenshu (Complete works of Buson) IV p. 151; partial English translation, Sawa and Shiffert, Haiku Master Buson , pp. 26-28

[6] Buson zenshû IV 遺墨 #16.

Partial translation in French, The poet-painters, Buson and his followers, p. 6.

[7] Buson: His Two Journeys『蕪村 その二つの旅』, p. 23, 参照。

[8] Buson zenshû IV ,俳文#64 pp.171-174.

For English translation, see Virgin, “Yosa Buson and ‘The Dawn of the Bassho Haikai Revival,’” p. 359;  see also French, The poet-painters, Buson and his followers,  p. 25,  for  variant translation by Zolbrod.

[9] これはいわゆる「離俗論」である。

[10] Buson zenshû IV:172

Virgin, op. cit., p. 359; re 148-149 note 42, based on Sawa and Shiffert, op cit.,

p. 156.

[11] Buson zenshû IV:172

 See Ueda, The Path of Flowering Thorn: The Life and Poetry of Yosa Buson,  trans, p. 66-67; French, op. cit., p. 30, #69; also see the above reference.

[12] Buson zenshû IVpp. 139-140:『むかしを今』序(安永3年) 「巴人の語」)

For English translation,  Sawa and Shiffert, op. cit.,  p. 36-37.)

[13] Buson zennshû IV, pp 155-158.

 for an English translation, see Sawa and Shiffert, op. cit., pp. 158-160)

[14] Okada Rihei states that the “Sha-in” signature, however, is found on a calligraphy work comprised of three large characters dated to 1774. See Okaka Rihei. “Buson’s Life and Art”, p. 3.

[15] Translation by Zolbrod, Haiku Painting, p. 22.

[16] Poem Numbers in parentheses are from

ôtani Tokuzô, Okada Rihei, Shimasue Kiyoshi

Buson-shû   (Koten haibungaku taikei, Vol. 12)

Tokyo: Shûeisha, 1972. これからの句の括弧にある番号は、

大谷篤蔵 島居清 岡田利兵衞 校注、『蕪村集』  (古典俳文学大系 ; 12)

東京 : 集英社, 1972、からである。

[17]岡田彰子、 「遺墨 解説」『蕪村全集』VI, pp.603-614 を参照。

Okada Akiko discusses this development in Buson Zenshû VI, pp.603-614. 

下野健児、 「蕪村の書について」,『蕪村 その二つの旅』p26-29を参照。Shimoya Kenji also discusses Buson’s calligraphy in exhibition catalog Buson, His two journeys, pp. 26-29.

[18] English translation based on Watson, Buson, plate 7, p. 16; for

 an alternate translation, see Zolbrod, Haiku Painting, No. 21, p. 22.

[19] For the text, see Buson zenshû IV, pp. 221-224; illustrated in 『俳人の書画美術』、巻5、図48; for an English translation, see Sawa and Shiffert, op. cit., pp. 161-162.

[20] See French, op cit., p. 7 and p. 27 note 7.

[21] Translation by French, op. cit., p. 7.

[22] Ibid.

[23] See Takahashi Shôji,  Buson denki kôsetsu 高橋庄次『蕪村伝記考説』, pp. 302-303; see also note 21.

[24] Isamu Iijima, “Buson no haiga ni tsuite,” Museum 78 (September, 1957), cited by French, op. cit, note 68, p. 30.

[25] See Takahashi Shôji,  Buson denki kôsetsu 高橋庄次『蕪村伝記考説』, pp. 302-303; for a quote of letter; also see French, op. cit., p. 30, note #68.

[26] Rudolf Arnheim, “On the Late Style, “ In New Essays on the Psychology of Art,  pp. 285-293. Berkeley: University of California Press, 1986.

[27] Cf.. Art Journal  Vol.4 no. 2 Summer 1987. Special Issue: Old Age Style.

[28] Robert Kastenaum, “Creativity and the Arts.” p. 396. In Cole, Kastenbaum, Ray, eds. Handbook of the Humanities and Aging  Second Edition. (New York: Springer Publishing Company, 2000), pp. 381-401.

[29] Gene D., Ph.D. Cohen, The Creative Age : Awakening Human Potential in the Second Half of Life, New York:  Avon Books , 2000

[30] Jerome Silbergeld, “Chinese Concepts of Old Age and Their Role in Chinese Painting, Painting Theory, and Criticism,” In Art Journal  Vol.4 no. 2 Summer 1987. Special Issue: Old Age Style, pp. 103-114.