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                                 NETFUTURE

                      Technology and Human Responsibility

 

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Issue #92      A Publication of The Nature Institute         July 21, 1999

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            Editor:  Stephen L. Talbott (stevet@oreilly.com)

 

           On the Web: http://www.oreilly.com/~stevet/netfuture/

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CONTENTS

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Can Technology Make the Handicapped Whole? (Steve Talbott)

   Toward a fuller understanding of human potentials

 

The Living and the Dead (Jacques Lusseyran)

   `Many were dying, quite simply, of fear'

 

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身障者の「欠陥」とテクノロジー

 

スティーブ・タルボット (Stephen L. Talbott)                訳:服部由起子

 

 私達は、まずまずのテクノロジー社会を目指して進んでいる。何とかコースから外れないよう血の汗を流して進む、細い道があるとしたら、それは身障者達と共に歩む道ではないだろうか。テクノロジーは、急進的で、不確実、危険なものをはらんでいるかもしれない。それでも私達は、身障者にだけは特別の配慮をしたいという気持ちを抱くものだ。そんな感情があればこそ、網膜や内耳の蝸牛移植から、機械による脳波刺激や神経系統の大がかりな操作に至るまで、テクノロジーが社会の中で活かされているのだろう。障害者の支援手段として、テクノロジーの力を否定することはできないに違いない。

 

 レイ・クルツヴェイルは著書『心を持った機械の時代』(The Age of Spiritual Machines, by Ray Kurzweil)で、こうした点を強調する。私達がいるのは「滑りやすい坂」だと繰り返し述べながら、著者はあえて、その坂を滑るに任せている。そのうち人間は、心身をそっくり遙かに優秀なデジタル・テクノロジーで置き換えるようになると、著者は力説する。

 

 やや無謀ながら上記の隠喩を組み合わせると、あの「細い道」は、「滑りやすい坂」に対する唯一の選択肢ということになる。私はここで、その道を渡ろうとしているわけではない。道の存在をせめて示したいというのが、拙文のねらいである。血の汗を流すとまでは言えないにしろ、これほど切迫した思いで、またこれほど自分の力量不足を感じながら、文章を書いたことはない。

 

 拙文は、ある本の論評の形を取っている。1953年に書かれた、コンピューターとは無縁の本である。しかし、コンピューター社会にこれほど密接な関係を持った本は、ないように思う。今世紀の最も重要な作品のひとつだとも考えている。

 

 書き出しの部分を読んで、テクノロジーと身障者というテーマから外れているのではと、疑問に思われるかもしれない。しかし是非、最後まで読み通していただきたい。

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書評:『そして光があった』ジャック・リュセイラン著

      [And There Was Light, by Jacques Lusseyran, 2nd edition

      (New York: Parabola    Books, 1998)Paperback, 328 pages, $14.95]

 

 

 1941年の春、パリで、16歳のジャック・リュセイランは、52名の選り抜きの青少年を前にしていた。自分に課せられた大役の責任の重さに、ここ数日、彼はひどく興奮していた。今では、それも落ち着き、きっぱりした調子で、彼は52名に呼びかけた。

 

  君たちは今夜、扉を開いた。もう閉じることはできない。僕たちが今、一丸となってしようとしていることは、レジスタンス活動と呼ばれている。ここにいる者は皆、未成年で、僕など17歳にもなっていない。若年のために、活動のあるものは簡単にいかないかもしれないが、若いからこそ可能な活動もあるのだ。世間は、僕たちを子供と見て、用心しないだろう。少なくとも、当分は。

 

 ナチ占領下のフランスで、リュセイランはこうして、解放義勇団を結成した。続く1,2年の内に団員は600名に増え、地下活動の機関誌を出版配布し、撃墜された英空軍兵士の保護や復員の為の組織を作った。その後、フランス自衛団に加わり、新聞を刊行するが、それは後に、パリで最も重要な日刊紙「フランス・ソア」となった。

 

耳で聞く以上のことを聞く

解放義勇団の団員確保は、一切、青年ジャックに任されていた。ひとつには、並はずれた記

力で、週ごとの新情報の要約を紙に書き留めずに報告できる才が、買われたのである。紙に書くと、敵の手に渡るおそれもあるからだ。しかし、もっと重要な理由は、彼を知っているものが一様に認めるように、彼が「人を見抜く」特殊な力、ほとんど確実に見抜ける力を、備えていたためだった。

 

 映像、色彩、音により育まれるこの特殊な能力は、まだ幼い頃から彼の内にあった。例えば、数学教師が「教室に入って来て、手をたたき、おもむろに授業を始めた」時のことを、彼はこう記している。

 

その日、先生はいつものように、冴えたところを見せていた。いつもよりもっと冴えていたかもしれない。ほんの少し、度が過ぎるほどに。話すとき、語尾を1,2音階下げる癖があったのに、その日は語尾を落とさず、声がピンと宙に残った。まるで何かを隠したがっているようだ。何も知らない生徒達の前で平静を繕い、最後までこの調子で押し通さなくてはと、思っているようだった。言葉の最後に来るとメトロノームのように正確に音階を落とすいつもの話し方に馴染んでいた私は、気になってそわそわした。先生を助けてあげたいと思った。しかし、先生が悲しんでいる証拠など何もないのに、助けに出るというのも変だ。でも確かに、先生は悲しがっていた。しかも、ひどく。一週間後、私達は、先生の奥さんが出て行ったという恐ろしい噂を耳にした。

 

ルセランは続ける。

望んだわけでも特に意識したわけでもないが、私は人の声の中に多くのことを読みとった。次第に、話の内容より声色の方が気になってきた。時々、一回につき数分間位だったが、授業中、先生の質問も生徒達の答えもまるで聞こえなくなることがあった。みんなの声が私の頭の中に繰り広げていくイメージに、あまりに気を取られていたのだ。こうしたイメージの半分は、表面上の姿と恐ろしく違っていたから尚更である。例えば、パコという生徒が歴史で100点を取ったことがあった。私は呆気にとられた。パコの声は紛れもなく、何ひとつ理解していないことを示していたから。彼は、口先だけで学科をさらっていた。中身のない、うつろな声だった。

・・・・・

美しい声(ここでの「美しい」という語の意味合いは深い。美しい声の持ち主は、美しい人格の持ち主なのだ)は、咳き込んでも、どもっても、変わらず美しい。これに対して、醜い声は、柔らかく芳しく、歌うように、笛の音のように、響くこともできる。しかし、まるで空虚なのだ。どう響いても、醜さに変わりはない。

 

 リュセイランは、フランスの5大レジスタンス組織のひとつで、共同指導者として、さらにリクルートも担当しながら、華々しい功績を数多く立てていった。しかし、1943年、多数の同士と共に裏切りに合い、ドイツ軍に引き渡された。6ヶ月間拘留されてゲシュタポの尋問を受けた後、ブーヘンヴァルト収容所に送られた。このときの総数は2000名。15ヶ月後、パットン将軍の隊がブーヘンヴァルトを解放した時、その内生き残っていたのは、リュセイランを含むわずか30名余りに過ぎなかった。(ブーヘンヴァルト収容所での彼の生活については、付録の記事を参照し

てほしい。)

 

 注目すべきは、リュセイランが盲人だったという点だ。7才から8才の間に、彼は事故で視力を完全に失っていた。レジスタンス活動の有志達が運命を預けたのも、生き地獄のブーヘンヴァルトで内なる力を発見して生き延びたのも、この若い盲人だった。

 

失った視力と第二の視力

 少しずつ成長していきながら、ジャックには、生きていることがひたすら嬉しかった。彼は、常に走っていた。「子供時代、走ってない日はなかった」と言うほどに。

 

ただ、何かを捕まえるために走ることは、しなかった。これは大人の考えで、子供のそれではない。私は、見えるもので未だ見たことのないものの全てに出会いたくて、走った。まるでリレー走のように、ひとつ確かめては、次を目指しと、どこまでも走りついでいった。

 

 4才の誕生日に、三角形の光を目指して歩道を走っている最中、不意に自己をはっきり認識した。その時のことを、彼はこう振り返る。「この光の池に向かって進むよう、私は作られていたのだ。手足をひらひらさせながら、私は大声で叫んだ。『僕は4才、僕はジャックだ。』」

 

 事故に遭う前、彼は何にもまして光に魅せられていた。家の近所の建物や通りに光が射しているのを、何時間でも飽かず眺めたものだ。暗闇でさえ光を有しているように思えた。ただし「新しい形、新しいリズム」で。この世の何もかも、閉じた瞼の内側に見えるものまで、大いなる光の奇跡に与っているようだった。

 

 復活祭休暇のある日、田舎で休暇を過ごしていたジャック一家は、パリに戻る準備をしていた。その時、幼い少年は不思議な予感におそわれ、悲しみでいっぱいになった。田舎屋の光あふれる庭を見回しながら、彼は泣き出してしまった。どうしたのと尋ねる母親に、ジャックは言った。「僕、もう二度とこのお庭が見られないんだ。」

 

 事故は、それから3週間後に起きた。教室で他の生徒とぶつかった拍子に、机の角で頭を打ち、さらに、掛けていた眼鏡のフレームがまともにつき刺さった。片目は眼球摘出、残った方の目も網膜がずたずたに傷ついていた。彼は完全に失明した。

 

 リュセイランの本には、驚異的なことがいろいろ出てくる。彼の生い立ちの背景としてかい見える両親の存在も、そのひとつだ。最初の数頁で、両親は別に改まって紹介されているわけではない。しかし、この数頁に述べてあることは、全ての親が望み得る最高の誉め言葉に匹敵する。

 

両親は保護、信頼、暖かさそのものだった。子供時代を振り返ると、今でも上から背後から周囲から、暖かな感覚が私を包み込む。まだ自分一人で生きて行かなくてよい、代わって面倒を見てくれる人の体と魂にゆったりもたれていればよいという、独特の感覚だ。

 

両親は、どこにでも、私を抱いて行った。子供時代、一度も地面を踏んだ気がしないのは、きっとそのためだろう。私は、外に出かけては、また帰って来ることができた。物体には重さが無く、いろんなものに足を取られることもなかった。光が鏡を抜けるように、私も危険や恐怖を抜けていった。これが子供時代の喜びだった。一度身につけたら、一生頼みと出来る魔法の鎧だった。

 

 この自在な行き来、物体の無重力性あるいは軽さは、ちなみに、インターネットの目くるめく自由や無重力性とはかなり異なるものだ。後者の無重力性は、「原子」世界ではなく「ビット」世界の特性として、今日よく口にされる。しかしジャック少年の軽やかさは、原子世界のものに会うためにたえず走り、こうして出会った全てのものが、無重力の光の言葉を持っていることを発見した結果なのだ。

 

 驚かされるのは、事故で光が「奪われた」とか不具者になったとか、息子にことさらに言わかった両親の態度である。子供時代に起きる他のいろいろなことと同じように、両親は事故をごく自然に受け止めた。この先も情況の許す限り息子は何でも出来るとして、取り立てて構えることもなかった。それに実際、特別扱いする理由は、何もなかったのだ。リュセイラン自身、次のように言っている。

 

愚かな大人がわざわざし向けない限り、子供達は自分の境遇に不満を抱かないものである。8歳児には、「あるがまま」の世界が、最良の世界なのである。苦渋も怒りも、8歳児は知らない。不公平感を抱くことはあるかもしれないが、それは、人から不公平に扱われた場合に限る。「出来事」は、子供には神の啓示なのだ。

 

 こんなことは前例がなかった時代に、ジャックは両親の方針で事故後も同じ学校に残り、翌年、クラスで主席になった。やがて彼は、超一流の名門大学に入ることになる。後に、フランスで最高の師範学校エコール・ノルマル・スペリオルに合格したが、ヴィシーの占領軍寄りの役所から、入学を拒まれた。何故か。身体的「欠陥」のせいだった。

 

 

危険

 しかしなんと言っても、全盲であるに関わらず、見ることを習得したというリュセイランの言葉には、驚かされる。

 

すぐに習得できたわけではない。あの手術後間もない日々には、無理だった。あの頃はまだ、目でものを見たいと思っていた。今まで通りの見方を試そうとしていた。事故以前にものを見る時いつも目を向けていた方に目を向けては、もやもやした苦しさ、虚しさでいっぱいになっていた。大人が「絶望」と呼ぶ感情にも似ていた。

 

とうとうある日、と言ってもそう日が経たない頃、私は、見る方向を間違えていたことに気が付いた。単純な間違いだった。度を合わせずに新しい眼鏡を買うような間違いを犯していたのだ。余りに遠くを、そして余りに表面を見ようとしていたのだ。

 

 そこで彼は方向を変え、外部世界に照準を合わせる代わりに、「ものではなく自分により近い世界を、自分のより内奥から」見ることにした。

 

すぐに全世界の物体が寄って来て、新たに定義され、新たに組み直された。私は、光のほとばしりを感じた。どこから出ているのか、私の内部から、それとも外部からなのかさえ、分からなかった。だが、確かにほとばしっていた。光が。紛れもない事実だった。光が確かにあったのだから。

 

光だけではない。色彩もあった。

父、母、知人、通りで出会う人々、銘々に特有の色があることを、私は盲目になって初めて知った。今や、各人の色は、各人の顔と同じくらい、鮮明な印象を残すようになった。とはいえ、こうした色彩は、ただ面白いというだけだった。これに対して、光は、私の存在の証ともいえた。水が井戸から湧き出るように、光が私の内部から湧き出るがままにして、幸福感を味わっていた。

 

 だが、この内なる光も、消えることがあった。恐怖、怒り、短気は、ジャックをもとの盲人にした。自信を失い、行く手の障害物を恐れ出したが最後、たちまち動けなくなってしまう。全てが、彼を苦しめ出す。「目を失ったくらいでは消えなかったものも、恐怖心の前にはひとたまりもなかった。」

 

 彼自身の恐怖心よりさらに危険だったのは、他の人達の反応だった。本の中で、リュセイランは、自分たちの世界観を唯一絶対のものと考えなかった両親に、大きな信頼を寄せている。視覚障害児の親達に、彼はこうアドバイスする。「見えないものには分かりっこない」と決して言わないように。また、危ないからこれをするな、あれをするな、と言うのも、極力控えるようにと。大人の哀れみや恐怖や気後れが、盲人には何よりの障害になることが、リュセイランの体験談から察せられる。

 

15才の時、同年の盲人の少年と、毎午後、かなりの時間を一緒に過ごしていた。彼も私とよく似た情況で、中途失明したという。あの日々を思い起こすと、未だに気が滅入る。少年は、私を怯えさせた。もしこれほど幸運でなかったら、きっと我が身にも起きていたに違いないと思われる全ての災いの、まさに化身の様な少年だった。彼こそ、本当に盲目だった。事故以来、一切、見ることが出来ないでいた。体は正常に機能しているのだから、私と同じくらい見えてよいはずなのに、周囲の者が邪魔していた。保護という名目で、彼をあらゆることから引き離し、彼が自分の思いを何とか伝えようとしても、まともに受け止めなかった。絶望と復讐心から、彼は貝のように心を閉ざしてしまった。心だけではなく、彼の体も、安楽椅子に沈み込んだまま滅び

かけていた。彼が私をも嫌っているのを感じて、背筋が寒くなった。

 

 障害者へのテクノロジーによる援助を考慮するに当たって、私達の考えは、リュセイランの成長背景に、或いはあの不幸な少年のそれにどれほど近いか、今一度見直してみる必要がありそうだ。この点における私達の姿勢は、何と言っても、テクノロジーに精通した援助者側より、援助を受ける側にとって、遙かに大きな意味を持っているのだから。

 

新しい目でより深く見る

 リュセイランの話は、盲人の「闇」の世界などと普通に口にしている健常者には、不可解なものがある。彼の言う「見る」という語を正しく理解するのは、容易ではない。本の随所に、盲人ゆえに運動の自由がいかに制約されているか、町や田舎を歩く—と言うより走る—際、付き添ってくれる友人達にいかに世話になっているかが、記されている。しかし同時に、こうした友人達は、ある意味で彼の方がよく見えているという事実を、程なくすんなりと受け入れていった。歩きながら、彼はよく、友人達に勝るとも劣らない速さで危険を警告したり、次の坂に何があるか告げたりしていた。

 

身の回りの物体が、彼の「心のキャンヴァス」にどのように生き生きと再現されるか、聴覚、嗅覚、触覚が「通常」の働きから大きく離れて、いかに天啓的な役割を果たすかが、本の中に書かれている。全ての物体が、例え離れていても、いかに一種の圧力のようなものを働かせているかも、記されている。この圧力に知覚を総動員して応えるとき、物体との間に感じられる境界線がぼかされていくのだ。

 

特に「見る」ことに関して、彼が何とか説明しようと試みた一文がある。

並木道を歩くとき、木々が等間隔に植わっていなくても、その一本一本の位置を、私は指し示すことが出来た。それがすっくと伸びた背高の木で、体の上に頭があるように枝々を梢近くに生やしているのか、あるいはこんもり密集して地面の一部を覆っているのかも、言い当てられた。

 

これはひどく私を消耗させたが、とにかくうまくやれた。それに、疲労は木々の数や形から来るのではなく、私の内部で生じるものだった。見るためには、昔の見方から離れなくてはならない。この状態は、そう長く維持できなかった。木々が私の方に来るに任せ、私が木々に歩み寄ることは、ちらとも考えてはならなかった。木々を知りたいという欲を、ほんの少しでも、木と私の間に入れてはならなかった。欲を出したり、いらいらしたり、成功に得意になったりする余地はなかった。

 

このような状態は、つまりは、一般に「注意力」と呼ばれているものに過ぎないのだろう。だが、この域にまで高めるのは決して容易ではないと、体験から断言しても良い。

 

 これを読んで、人間は二つの光の力でものを見るという、古代の教義を連想した読者もいるだろう。人間の内部から射す光と、目には見えない光の力で。あるいは20世紀の知覚研究での新たな発見を、思い浮かべた読者もいるかもしれない。

 

 神経学者、クルツ・ゴールドシュタインは著書『生体の機能』(The Organism, by Kurt Goldstein)で、知覚は他の器官と同じように、それだけで独立して働くことはないと説く。例えば、網膜に結ぶ各映像は、それぞれ独自の筋肉の動きに対応するそうだ。

 

一患者、出来れば小脳障害の患者(以下の症状を最も顕著に示す)に、両腕を前に伸ばした不安定な姿勢をとらせた上で、様々な色彩(大判の色紙)を見せる。すると、緑や青を見せた時と、黄や赤を見せた時では、患者の腕は逆方向にずれることが分か

る。

 

 色彩は、小脳病患者だけでなく、全ての人の随意運動に影響を与えるもので、光が赤か緑かにより「異なる速度で運動が引き起こされる」。最もその差異は、人には感じ分けられないほど微妙なものである。また、

 

  移動距離の推定値には、幅がある。被験者の目や体で感じる距離、時間、重さは、各色彩の影響下で個別に測定される。

 

 ゴールドシュタインは、皮膚に対しても、個々の色彩が独自の刺激を与えることを挙げている。つまり「特定の色彩による刺激が全身に特定のパターンの反応を引き起こすと言っても、間違いではあるまい」。赤外線や紫外線など、通常、視覚で捉えられないもので刺激を与えても、同じことが言える。

 

 これでうまく説明がつく。もし生物が統一体なら、言葉の最も深い意味において統一体であるなら、身体のある器官や機能の欠陥をいちいち取り上げて、これこれの障害者と決めつけるのは無茶ではないか。ここに一生物体があるとする。わざわざ個々をつついて、いたずらに制約を加えない限り、その生物体は体のどの部分からも元の全体像に行き着けるはずである。全体は、各部分に内在しているのだから。人間の知覚は、ひとつの統合体を形作っていて、五感のどの組み合わせから入っても、結局同じ所に到達するのである。内に秘められた力により、その到達度には差があるが。

 

 

限りなき潜在能力

 今日、私達は障害をテクノロジー化する傾向にある。機械の一部がうまく機能しなくなったと受け止め、すぐに「修理」にかかれば、それで万全と思ってでもいるようだ。リュセイランの体験を読むと、障害は彼の物語のほんの一部、それも最も些細な部分に過ぎないことが分かる。「見る」という行為を、眼球をカメラとした唯のメカニズムと解釈するなら、人生に用意されている豊かな可能性を、みすみす逃してしまうことになるのだ。

 

 リュセイラン自身は、こんな態度をとうてい受け入れることが出来なかった。盲人達が「まだ目で見ている人達の無理解」に苦しんでいるのを見るにつけ、彼はますます両親の偉さに感じ入っているようだ。

 

父母は、心も頭も精神的な方面に向けていた。この世は、役に立つもの、決まり切った意味で役に立つものばかりで出来ているわけではないと、父母は信じていた。父母にとり、他と違っていることは、必ずしも障害ではなかった。自分たちの一般的な見方が唯一の見方でないことを喜んで認め、私の流儀も気に入り応援してくれた。

 

 リュセイランがどこかで述べているように、実際、父親は事故の後、息子にこんなことを言っていた。「何か見つけたら、いつも父さん達に教えるんだよ」。何と型破りで伸びやかなアドバイスだろう。私の息子は、幼い頃「共感覚」(ある音である色を感じる感覚)を備えていた。家庭でこの感覚を自然に生かせる場を用意してやらなかったことを、私はずっと後悔している。子供時代の創造力や知覚が—とりわけ子供にはごく当たり前の自然に対する感受性が—鈍い大人達から故意に押さえつけられなかったら、今日、私達はまるで違う世界に住んでいたのではと思わされる。

 

 リュセイランの随筆選集の新版が、まもなく出版される(付記参照)が、その前書きで、クリストファー・バンフォードがオランダのある聾少女について触れている。少女の両親は、何と、彼女を健常者と全く同じように育てることにした。そこで、彼女にたえず話しかけ、本を読み聞かせ、歌を歌ってやった。彼女は、ずば抜けて知的で快活な女性に成長した。聾者にありがちな発音が不明瞭なところも、まるで見られなかった。彼女は現在、聴覚障害児の親達のカウンセラーとして活躍している。音楽も好きで、コンサートによく出かけるという。

 

 バンフォードが書いているように、「私達は明らかに耳以外の所でも聞いている」のだ。実際、「オランダの少女の逸話は、『聞く』という行為そのものについて、改めて考えさせる」。私の解釈が正しければ、バンフォードの言いたいことはこうだ。無数の次元を経て、私達は何かを理解する。それは他の人達と「愛と真実の世界」に積極的に関わっていくことにつながる。豊かな可能性を秘めたその世界を、わびしい観念的な一次元のメカニズムで置き換えては、本当に大切なことをまるで見失ってしまう。

 

 

病気を大切に

   限界や苦悩と、何かの成就との因果関係を否定したがるのが、現代人の特徴である。しかし、両者には確かにつながりがある。リュセイランの自伝の中に、特にこの関係に触れた挿話がある。

 

 ドイツ軍のフランス侵入でパリが様変わりしたことに、少年ジャックは胸を突かれた。どうしてパリが変わったと思ったのか、彼自身にも分からなかった。表だっては、ドイツ軍はほとんど見あたらないし、人々の生活も以前と変わらない。何もかも前のままだった。それなのに、世界が何か恐ろしい方向に進みつつあるのを、彼はみんなの雰囲気から感じ取った。周りの緊張感や、隣人達が防空壕に身を潜めだしたのが、彼には分かる。主にユダヤ人が、一人また一人と呼び出されて行き、そのまま戻って来なかった。皆が無口になっていくのが、感じられた。

 

 こうしたこと全てが、十代の少年の心をえぐった。得体の知れない、しぶとい病原菌のように。占領下の生活など、それまで経験したことがないだけに、想像もつかなかった。ドイツ軍は表向きは、フランスの後見人ということになっていた。どう解釈すればよいのか、少年は途方にくれた。

 

 やがて、一人の友人が連行されて行った。その後、リュセイランは重い麻疹で床に就いた。高熱のさなか、突然、全てがはっきりと呑み込めてきた。内部から突き上げて来るような思いに、彼はある決意を固めた。その間、彼の体は必死で病気と闘い続けていた。「この病気は、体だけでなく心にも関係していたのだ。」

 

 こうして、あの鉄の意志が誕生した。新たに満ちた熱い血潮で、彼はいよいよレジスタンス活動に乗り出すことになった。

 

何という有り難い麻疹だったことか。それまで何週間も私の中に頑固に巣くっていた恐怖、欲望、雑念や焦燥感は、すっかり別ものに生まれ変わった。麻疹にかからなかったら、一生元のままだったに違いない。病気が峠を越すと、私は一人、声に出して言ってみた。「占領が、僕の病気なんだ。

 

 今日、根の深い社会問題に直面するとき、私達もリュセイランのように個人的危機をあえて受け入れる心境になれたら、どんなにいいだろう。しかし、ささいな病気にも集団で予防ワクチンを飲んで用心してしまう社会では、病気が必要、有益なものにもなり得るという考えを受け入れるのは難しい。今のままでは、社会悪が存在しないときに、全力を使い切ってしまうことになりそうだ。

 

 こんな病気観を受け入れるのは、失明を天からの授かりものと受け止めるのと同じ位、難しい。しかしこれについては、直接「犠牲者」の声に耳を傾けるに限る。リュセイラン自身の結論は単純明快だ。「失明以来、不幸な思いをしたことがない。」フランス・レジスタンス活動で人々のために尽くし、強制収容所でも平和を見出すことの出来た人物に、どう反ぱく出来ようか。

 

テクノロジーの場を探す

 『そして光があった』を読んで、リュセイランと私と、果たしてどちらが大きな欠陥があるのか考えさせらた。「当たり前」の知覚で、私達は自らを小さな囲いに閉じこめてしまった。もっと広々した世界を見つけたい—私達にそんな希望を抱かせるのは、障害者達なのだろうか。

 

 レイ・クルツヴェイルが熱っぽく述べる「滑りやすい坂」に、何とか道をつけようとする人々は後を絶たないだろう。人の能力を機械視する傾向が進み、人間が身を落として行くにつれ、その正反対の方向に位置する、人間の可能性を具現化した存在は、ますます重要味を増していく。リュセイランの生涯が鮮やかに示すように、私達の可能性は、冒頭に述べたあの細い道と切り離せない。あらゆる制約や有り難くない運命のいたずらの中にも潜在している素晴らしい力を、テクノロジー信奉を止めてでさえ、私達は見つけなくてはならない。

 

 私達が全身に宿している能力を駆使して得る「視力」に比べたら、直接的な器官である目による「視力」は、比べものにならない。またリュセイランの話が示すように、身体的「欠陥」は、多くの意味で、たいていの「健常者」の遙かに及ばないところまで、私達を導いてくれる。もしこれが本当なら、健常者は障害者の欠いているものを備えた完全な存在などと早合点して、盲人の尊厳を踏みにじることは出来ないはずだ。テクノロジーを駆使して一種のカメラにより人工的な視力を作り出す、という考えに私達は関心を持つが、少なくともそれと同程度の関心を、リュセイランの功績にも向けてほしいものだ。

 

 言い方を少し変えてみよう。社会福祉や市民の幸福、満足は、その時代時代(紀元前1万年、紀元1200年、1999年、2100年等々)の先端技術にかかっているわけではない。全世界から私達の方にやってくるものを迎えるために、私達の内部から生まれ出る光こそ、福祉や幸福をつかさどるものなのだ。

 

 これこそがあの細い道を作っているのだ。何も、盲人用に開発された装具とか他の補助手段を否定しているわけではないし、こうしたものを私は一切用いないと言うのでもない。実際、盲人に向かって君はこれこれの補助がいる、いらないと指図するなど、傲慢もいいところだ。だが同時に、次のことも考えてほしい。盲人だからと、何かと能力を限定してしまうのも、やはり傲慢なのではないか。リュセイランの両親はこの点、実に卓越していたが、それがなければ、彼はあれほど豊かな人生は送れなかったに違いない。

 

 細い道を行くことは、上記の二点を常に念頭に置いておくこと。つまり、精神的バランスを保った行為である。言葉巧みに「解決策」を振りまくテクノロジーのセールスマンは、尻込みしそうな行為だ。

 

 誤解がないように、今一度繰り返そう。私達は誰に対しても、便利な装具を使え、使うなと指図する立場ではない。この先も、新技術で生まれる補助具は、それを必要とする人達から用いられるだろうし、また用いられねばならない。しかし同時に、私達の方も、「血の汗」を流さねばならない。リュセイランが常に走って追っていたあの内なる光を、全力で開拓しなければ、クルツヴェイルやその支持者達の言葉通りになってしまう。私達は、ただの機械と化するだろう。

 

 言い換えれば、リュセイランの話は、テクノロジーの産物に対し、真っ向から教訓を投げかけているのだ。リュセイランの努力の方が桁外れに勝っているのに、テクノロジーの信奉者から誤解され、テクノロジーこそ視覚障害の解決策という考えとすり替えられようとしている気がして、私は心配になってくる。

 

 こんな見方は、未来のリュセイラン達にいわゆる「正常」な視力をもたらすかもしれない。しかしそれは、正常な視力を、段々とただのメカニズムに貶めて行くことにもなる。非凡な力の持ち主、リュセイランだったら、テクノロジーによる視力を受け入れ、なおかつ全ての人が内に秘めている、視力のより深い源泉を見つけ続けたかもしれない。

 

 しかし私達凡人は、自分の視力を完璧にカメラ等種々の映像機器並にすることは出来ず、かといって、リュセイランの深遠な視力の端くれさえものにすることもできない。いよいよ機械漬けになってきた精神に、テクノロジーの産物が深く食い込んでいく今、私達はどんな魂の成長を望めるというのか。

 

 『そして光があった』はブーヘンヴァルト収容所の開放で終わる。戦争に参加しながら、リュセイランはついに、教員の資格を得ることが出来た。ソルボンヌ大学で教えたあと、1958年にアメリカに移住した。その後ハワイ大学の哲学の教授になり、1971年、交通事故で生涯を閉じた。

 

 まもなく出版されるリュセイランの新編エッセイ集の試刷版が、パラボラ・ブックス社から届いた。タイトルは、『自己の光を守って』(Against the Pollution of the I)。出版されたら是非、改めて詳しく紹介したい。ここでは、『そして光があった』と同じ意味において、このエッセイ集も言葉ではとても言い表せないと言うにとどめておこう。それでも、心理学者のロバート・サーデロに、何とかふさわしい言葉を見つけてもらおうか。

 

最も勇気ある者しか踏み込むことの出来ない心の領域について、ジャック・リュセイランは力強く明解に、しかも美しく品位ある筆致で描写してみせる。彼の筆が伝えるのは、非凡な感受性、究極の内省の光、失明や死の恐怖も侵すことの出来ない恒久的な深い喜び—まさに不屈の愛である。一冊の本に、これほど感動させられたことはない。洗練された言葉遣いと天性の創造力を駆使して書かれたこの本は、人間としての本来のあり方を教えてくれる。リュセイランは自らの生き方を通して、それを私達に示しているのだ。

 

パラボラ・ブックス(Parabola Books):http//www.parabola.org;TEL: 212-505-6200

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生と死

ジャック・リュセイラン

 

序文

 ブーヘンヴァルト収容所に到着した時、全盲のジャック・リュセイランは、身を守る術もなかった。「私のパンとスープは」と彼は書いている。「二日に一度は誰かに奪われた。私はすっかり弱ってしまい、水に触ると、まるで火に触れたように指先が焼けつく気がした。」

 

 こんな情況でも、彼は収容所にいた約三万人の囚人のために「公式の」広報係になったと、話を進める。拡声器から流れるドイツのニュースに、注意深く耳を傾けた。報道されない部分や、巧妙に言いつくろわれている部分は、彼なりに真実を推測する。地下室で、囚人の誰かがこっそり組み立てた秘密のラジオで、フランス、イギリス、ロシアのニュースも受信した。こうして得た情報をもとに、彼は収容所の各棟を回って、連合国軍のフランス及びドイツ侵入の進捗状況を日々、報告した。

 

 この奉仕活動が、ブーヘンヴァルトにとりどれほど意義深いものだったか、想像もつかない。途方もない噂が飛び交い、収容所は混乱を極めていた。「噂では、パリは日に一回は陥落した・・・一人残らず噂をばらまき合っていた・・・不信感、苦悩が深く根を下ろしていく・・・ブーヘンヴァルトでは皆、嘘をついた。落胆、恐怖、無知から生まれた嘘。中には悪意のこもった嘘もあった。仲間を苦しめて憂さ晴らししたいばかりに、仲間の家族、友人が住む町が空襲で壊滅した話を、でっち上げている者もいた。」

 

 ニュースを紙に書き、仲間の手を借りて数カ国語に翻訳して配ることもできたかもしれない。しかし、人とのふれ合いを欠いたこの方法では、「心に直接響く真実」が欲しいという囚人達の欲求に応えることは出来なかっただろう、とリュセイランは言う。皆が待っているのは、前に来て直接伝えてくれる人、その人の落ち着き、その人の生の声だ。私が、その声になった。」

 

 こうして彼は、朝から晩までこの仕事に打ち込んだ。ニュースを整理して、収容所の各棟に伝えて回る。ドイツ語とフランス語は直接自分で伝え、その他の言語は仲間の助けを借りた。まずドイツ軍司令部の発表を逐一繰り返し、次に彼なりの解釈を告げる。各棟に入るたび、彼はその場の雰囲気を探った。

 

棟全体のざわめきや匂いから、そこの情況が察せられた。分かってもらえないかもし

れないが、絶望には独特の匂いがある。そして信頼にも。両者の匂いはまさに両極の

世界を成している。

 

 こうして判断した情況に応じて、彼は伝えるニュースを加減した。「人間の気力は

もろいものだ。言葉ひとつ、いや抑揚ひとつで、たちまち挫けてしまうところがあ

る。」

 

不思議なことに、他人の恐怖に耳を傾けているうち、自分の抱いていた不安感はいつ

の間にか消えていた。私は朗らかになった。別に努力したわけでも、意識したわけで

もないのに、常に明るく振る舞えた。この明るさは、当然自分の為になったが、同時

に仲間達をも元気づけたようだ。盲目の小柄なフランス人が晴れやかな顔で入って来

て、よく通る声で頼もしいニュースを告げていくのを、皆、心待ちにするようになっ

た。何もニュースがない日でも、私が来ないと承知しなかった。

 

 しかし、「明るさ」という語で、リュセイランのブーヘンヴァルト体験を一括りにすることは、とても出来ない。『そして光があった』から、特に収容所での初期体験を綴った部分をここに転載してみよう。許可して下さったパラボラ・ブックス社に感謝する。 スティーブ・タルボット

 

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 病人棟は、見た目は他の棟と変わらなかった。違うのは、他の棟が平均300人収容なのに対して、この棟には1500人が押し込まれ、食物の配給率は他の半分だったことだ。入所者は片足、片腕、穿頭術を受けた者、聾者、聾唖者、盲人、両足共ない者—さらには、私もこの中の三人ほどと親しくしていたが—失語症、運動失調症、てんかん、壊疸、腺病、結核、癌、梅毒等の諸患者、また70歳以上の老人や16才以下の少年、窃盗狂、浮浪者、変質者と続き、最後にいろいろなタイプの狂人がいた。表情を曇らせていないのは、この狂人達だけだった。

 

 病人棟には、完全な者は皆無だった。完全でないことが、入所の条件だったのだから。その結果、入所者はばたばた死んで行き、この棟はますます軽視されていく傾向にあった。死者につまずくより生きている者につまずく方が、意外だった。その方が危険だった。

 

 すさまじい悪臭で、それを消すのは風向きによって流れて来る火葬の煙の臭いだけという有様。幾日もの間、歩くこともままならず、私は這って進んだ。病人、死人がごろごろ転がっている床を、手探りで這って行くのだ。手をずらすたび、死人の足から胴体へ、怪我人の体から傷口へと触れてしまう。もはやうめき声以外、何も聞こえなかった。

 

 その月の末近く、突然、私は限界に達して、病に倒れた。それも重い病に。胸膜炎だったのだと思う。医師で友人でもある数名の囚人が、私を診に来てくれたそうだ。私の胸の音を聞いて、もう駄目だと思ったようである。彼らに何が出来ただろう。ブーヘンヴァルトには薬などあるわけもなく、アスピリンすらなかった。

 

 胸膜炎に加えて、すぐに赤痢も併発した。両耳が感染症を起こし、まる二週間、私は聴覚を失った。やがて丹毒で私の顔は醜く腫れ上がり、いろいろな合併症で今にも敗血症を起こしそうになった。こうしたことは後に、五十人以上の仲間から聞かされて知った。私自身は何も覚えていない。発病後まもなく、私はブーヘンヴァルトを抜けた。

 

 特に親しみを覚えていた片足のフランス人少年と片腕のロシア人少年が、四月のある朝、私を担架で病院に運んでくれた。病院といっても、治療の場ではない。死ぬまで、或いは回復するまで、病人を単に寝かせておくだけの場所だった。友人パヴェルとルイには、その後の経過が呑み込めなかった。君はつくづく変わってると、二人からいつまでも言われたものだ。一年たっても、ルイなどまだ不思議がっていた。「あそこに運んで行ったとき、君は四十度を超すすごい熱だったけど、意識はしっかりしていた。はっきり分かっているみたいで、僕達に、自分のせいで迷惑がかからないようにと、しきりに言ってたよ。」もし出来るなら、ルイとパヴェルにきちんと説明したかったが、その時の体験を言葉で表すのは無理だった。未だに表せないでいる。

 

 病気は私を恐怖から救い、死からさえ救ってくれた。簡単に言うと、病気をしなければ生き延びることは出来なかっただろう。病気で倒れるや否や、私は意識ははっきりしたまま、別の世界に入って行った。朦朧としていたのではない。ルイの言った通り、私はそれまで以上に、落ち着いた表情を見せていた。まさに奇跡だった。

 

 病気の経過を、私は一部始終しっかりと観察していた。体の諸器官が次々にやられ、バランスを崩していくのが分かった。まず肺、次に腸、それから耳、全筋肉、最後に心臓が侵された。心機能が衰え妙にうつろな音が体を満たした。こうして観察しているものが何なのか、私ははっきり承知していた。この世を去ろうとしている私の肉体。すぐには去りたくない、というより、去ることをまるで望んでいない私の肉体。その肉体はまるでずたずたに刻まれた蛇のように、くねくねとあらゆる方向にのたうちながら、私に苦痛を与え、この世を去りたくないと必死で告げていた。

 

 死が迫っていたと、書いただろうか。もしそうなら、訂正したい。確かに病気や苦痛に見舞われていた。しかし、死は訪れなかった。正反対に—それこそ信じられないことだが— 生命が私をしっかり捉えていた。自分が生きていることを、これほど強く感じさせられたことはなかった。

 

 生命は私の中でひとつの実体となった。私より千倍も強い力で、私という檻を破って、押し入ってきた。生命は血でも肉でも、否、知恵でもなかった。波が煌めくように、光が戯れるように、私の方にやって来た。目や額の向こうに、頭上に、生命が見えた。私に優しく触れ、私を満たし、私の中からこんこんと溢れ出た。いつの間にか私は、生命の泉に浮かんでいた。

 

 陶然としながら、思わずいくつかの名前をつぶやいた。つぶやくと言うより、歌になって自然にこみ上げてきたのである。「主よ、守護天使よ、イエス・キリスト様、神様。」このことを、頭で考え直してみようとは思わなかった。形而上学をひねっている時ではない。生命の泉が、私の中に力を漲らせて行く。飲んでも飲んでも、まだ飲み足りない。この天の泉を去るつもりはなかった。懐かしい感情だった。事故後、失明に気付いた時も、こんな感情を味わったものだ。同じことがそっくり繰り返されていた。私の生命を支えてくれる生命。

 

 主はこの無力な魂に、哀れみをかけて下さった。私には、確かに、自分を助けることは出来なかった。人は誰でもそうだろう。この時、それを悟った。自分を助けられない者の筆頭に立つのが、ナチ親衛隊なのだ。そう思うと、何だかおかしかった。

 

 だがひとつだけ、私にも出来ることが残されていた。神の助けを、神が吹きかけて下さる息を拒まないことだ。それが私に課せられた、困難な、それでいて素晴らしい、唯一の戦いだった。つまり、自分の体を恐怖に奪い去られないようにすること。恐怖は死を招び、喜びは生を支えるのだから。

 

 私はゆっくりと、死の恐怖から抜け出していった。ある朝同室の一人が(後に知ったことだが、彼は無神論者で、その時も自分の主義にかなうことをしていると思っていたようだ)私の耳元で怒鳴った。「おまえにはこの世で生きていくチャンスはまるでないんだから、覚悟してた方がいいぞ。」私の答えは、腹の底からの大笑いだった。彼には、笑いの意味が分からなかったが、ずっとこの時のことを心にとどめていた。

 

 5月8日、私は自力で歩いて病院を出た。まるで骨と皮だったが、病気は治っていた。実際、余りに幸福だったので、ブーヘンヴァルトも有り難くはなかったが、何とか我慢できる場所に思えてきた。もしパンにありつけなくても、希望を食べて生きていけるだろう。

 

 これが真実だった。その後、尚11ヶ月も収容所暮らしは続いた。しかし今、最悪の条件下で過ごしたその330日を振り返っても、いやな記憶はひとつもない。私は御手に抱かれていた。御翼の陰に憩っていた。この活き活きした思いに、名前はいらない。自分のことを心配する必要はなかった。そんな心配は、滑稽にすら思えた。危険だし、不道徳だ。私は今や、自由に人を助けることが出来た。程度はささやかかもしれないが、私なりのやり方で助けることが出来た。

 

 生命を守っていくにはどうすればよいか、人々に教えようと努めることが出来た。私の中に溢れかえる光と喜びを、他の人の方に向けることが出来た。この時から、私のパンやスープは盗まれなくなった。二度とそういうことは起きなかった。たびたび夜中に起こされ、慰めを必要とする者の所に連れて行かれた。離れた別の棟まで行くこともあった。

 

 ほとんどの人が、私がまだ学生であることを忘れていた。私は「盲目のフランス人」となった。さらに、ただ「死ななかった男」で通っていた。私に秘密を打ち明ける者が何百人もいた。何としても、話を聞いてもらおうとしていた。フランス語で、ロシア語で、ドイツ語で、ポーランド語で。出来るだけ理解してあげようと、私は全力を尽くした。こんなふうに、私は生きてきた。こんなふうに生き延びた。この先は、言葉に直せない。